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歳時記 7月
2012年7月1日 謎の石仏
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最近見つけた
S18年刊の古本 |
奈良のような古めかしい場所をうろうろしていると、ときどき不思議な話に遭遇することが在ります。最近万葉集の関係で、飛鳥、磐余、初瀬、多武峰、三輪あたりを訪ねることが多くなっていますが、そこで拾った話をひとつ。
桜井市忍阪の石井寺に、極めて古い形式の珍しい三尊石仏があります。飛鳥-白鳳の時代に石仏は珍しく、僅かに奈良県葛城市の石光寺の石仏くらいしか見当たらず、また大変精巧なつくりなので、朝鮮からの舶載仏の可能性があるとされています。
近年の研究では、万葉歌人額田王が創建した可能性のある"粟原寺"の仏像ではなかったかという説が有力視されていますが、たまたま私が見つけた古書(「奈良の石仏」、著:西村貞、昭和18年刊)によると、驚くべきことに、この仏像が奈良元興寺の東金堂にあった、日本書紀にいうところの"敏達天皇13年(585年)百済国より鹿深臣の将来した弥勒像"という地元の石工の口伝が、昭和初期には存在したのです。
この奈良の元興寺は、日本最初の本格的寺院とされる飛鳥の法興寺(現:飛鳥寺)を、平城京遷都の際に新都に移したものですが、その折飛鳥寺にあった百済石仏を元興寺に移したことは、諸々の文献により間違いのない事実です。ただし、この仏像は、平安時代中期の康保年中(964-968年)に、興福寺(元興寺は平安時代には既に興福寺の傘下にあった)と対立関係にあった多武峰の僧徒に略奪されて、鎌倉末頃までは多武峰山中の一子院に置かれていたことがわかっています。ところが、それ以降行方が知れなくなっているのです。古書の著者西村氏は、石井寺の三尊仏をこの百済石仏と推定されておられるのですが、それから70年が経過して、現在ではこの石仏を日本書紀伝承の百済石仏とする説を唱えておられる方は、誰一人としていません。全くこの説がかき消されてしまっているのですが、私はいろいろと調べてみて、この説は案外ありえると思っているのですが、如何でしょうか。
同説の弱点は、この三尊石像が一般的に言われる白鳳時代の様式を保っていることで、敏達天皇13年(585年)に百済より伝来したという年記と合わないと考えるのが一般的ですが、仏教芸術の初伝は、いずれも通常考えられる年代よりもかなり早いということを忘れてはいけません。例えば、飛鳥寺の釈迦仏(飛鳥大仏)は、608年に造像されましたが、同像の模倣は白鳳時代(例:吉野桜本坊の釈迦如来坐像)まで続きます。また、飛鳥大仏は、元来中国の北魏様式の模倣であって、同様の仏像の初伝は、6世紀中頃まで遡ると考えるのが常識です。それから、欽明天皇の御世(538年)に日本に初めて伝来したとされる信濃善光寺の阿弥陀三尊像は、"善光寺様式"という独特の形式をしていますが、同様の仏像は、やはり白鳳時代まで造られています。白村江の戦い(663年)の後、中国との国交が途絶えて、遣唐使を復活した大宝2年(702年)という年が非常に重要で、それ以降日本文化は、中国の盛唐様式で埋め尽くされていくようになります。
そのように考えると、この石仏が日本書紀でいうところの百済石仏とするならば、その後流行した同様の三尊形式はその模倣ということでもおかしくはないのです。朝鮮半島の三国仏の研究が進んでいないので、後は類推ということになりますが、当時の百済にあっても、この石仏は最新鋭の知識と財力を投入した大変貴重なものであったはずです。また、日本にあっても空前絶後のもので、同様の模倣仏の多くは、粘土で固めた磚仏でしかありません。
粟原寺の伝来ではなかったかという説が在りますが、それはこの寺院で造られたということではなくて、元興寺から多武峰が略奪した後に、仏像を置いたのが、同山の山麓にある粟原寺だったのではないでしょうか。この仏像は、外国産の所謂白瑪瑙を用いて造られていて、一皇族の資力で購えるようなものではなかったと思います。記録によると、粟原寺が創建されたときの仏像は、丈六の釈迦像であったようです。
もし、私の推測が正しければ、この仏像は、日本における仏教美術の歴史を覆す画期的なものということになるのですが・・・。全くマニアックな話ではありますが、私の想像は膨らむばかりでありました。 |
2011年7月1日 島歌の悦楽
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沖縄しまうたの神髄
嘉手苅林昌 |
最近、奄美・沖縄の島歌を聞くことがちょっとした私の楽しみ。島歌ブームは今に始まったことではないので、突然のマイブームは遅きに失した感がありますが、?啄同時(そったくどうじ)という言葉があるように、私の場合
今がそのタイミングだったということでしょう。
実は、ただやみくもに道を歩いていて宝物にぶちあたったというわけではなく、今年2月に、地元で開催されていた万葉古代学研究所の公開講座「万葉集の社交歌(講師:
曹咏梅)」に参加して、万葉時代の歌習俗が奄美地方の島歌に残ることを知ったことがその契機になっています。すなわち、万葉歌の源流は古代の歌垣における交互唱にあって、現在中国南部の少数民族の対歌などにその習俗が残るというのが講義の本旨だったのですが、日本ではかすかに奄美島の島歌(流れ歌)にその習俗が残ることをその時に知ったわけです。その時に入手した本が、"万葉集に会いたい(辰巳正明)"で、この方は講師の曹咏梅さんの先生に当たるそうで、辰巳氏の旧著「歌垣-恋歌の奇祭をたずねて」は、私のかねてからの愛読書でもありました。
そういうことが契機であったとしても、今は単純に島歌のおおらかな歌いぶりが気に入って、それを楽しんでいます。最近は沖縄独特の音律がおもしろくて、奄美より沖縄地方の島歌を聞くことのほうが多いかもしれません。
そのようなことがあって、先日沖縄島歌の第一人者"嘉手苅林昌(かでかりりんしょう)"のCDを入手して、今良くこれを聞いています。嘉手苅林昌は、大正9年(1920年)に沖縄本島中部の越来村中原の生まれで、戦前に地元の"毛遊び(もうあしび、農漁村で行われる若い男女の交換の場)"で島歌を覚えて、戦後プロになり、1970年代に発掘されて全国的に有名になった人ですが、近代洋楽の洗礼を受けていない世代特有の音の揺らぎが心地よく、今一番の私のお気に入りです。まるで海が見えるようです。三絃(さんしん,沖縄三味線)が弾きたくなってしまいました。惜しくも平成11年(1999年)に亡くなられました。
かつて40年ほど前(万博があった頃?)に民謡ブームというのがあったようですが、思えばその頃は、戦前の古い習俗の中から育った本物が残っていた時代で、今となると果たしてどうなのでしょうか。 |
2008年7月1日 万葉集の七夕
最近"万葉集"を読んでいて、民俗学な知見が溢れていることに驚いています。考えてみれば、民俗学の泰斗折口信夫の業績の多くは、万葉集を中心とした古代学でした。それを今頃びっくりしたでは、全く稚拙この上もないということになるのですけれどもね。
例えば、柿本人麻呂の歌を追いかけていると、七夕歌の一群に出くわすことになります。人麻呂は比較的若い頃、恋多き時代にこれらをまとめて作歌したようで、全部で38首もあります。その中から一首を挙げると
遠妻(とおつま)と 手枕(たまくら)交へて さ寝る夜は 鶏(かけ)はな鳴きそ 明けば明けぬとも |
人麻呂は、彦星と織姫の年1回の逢瀬に託して、自らの気持ちを見事に読み込んでいます。妻問婚の時代にあっては、七夕の物語は自らの体験と重なって、大変親しみのあるものだったのではないでしょうか。ちなみに、万葉集を読んでいると妻問いの歌が大変よく出てきます。そして、いつも人に知られてしまったらどうしようと心配ばかりしています。人に知られてしまうと、場合によっては彦星と織姫のように引き裂かれてしまう場合もあるのでしょうか。古代人にとって、七夕の物語は、我々現代人よりももっと涙を誘う物語だったようです。 |
2007年7月1日 写真の感性
夏の日差しが強くなってくると、何故か子供の頃を思い出します。ちょうど夏休みが始まる頃、何時も虫取り用の網を持って野原を駆け回っていましたっけ。既に40年も前のことで、短パンにランニングシャツ、頭には麦藁帽子をかぶっているという格好で、今時そんな子供がいたら人間国宝かもしれませんね。
最近日中子供が外で遊んでいることを見たことがありません。私達は、テレビケームやクーラーはなかったけれど、いっぱい自然の中から学んだような気がします。特に人間の感性や情感といったものは、実体験の中でしか育たないと思うのですが・・・。
写真は、今やボタンを押すだけで誰でも撮れてしまうものになりました。しかし、簡単に撮れるようになった分、意図が明確でない写真が増えたように思います。良い写真には、その人の感性や体験が写っています。その人の個性や色調が、その人のメルクマークになっているのです。
その意味で「俳句写真」は、俳句を添えることで写真の意図がより明確になるので、写真の感性を磨くには良いと思います。少なくとも文学的な香りのしない写真は成立しなくなります。写真家諸氏は一度トライされることを薦めます。
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2006年7月 奈良町の地蔵盆:
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伝香寺 裸地蔵 |
地蔵盆は、地蔵菩薩の縁日である8月24日に行われ、旧暦の場合7月ということになりますが、奈良の場合7月と8月の両方にほぼ均等に分かれているようです。
地蔵菩薩は、親より先に無くなった子供を賽の河原で救うとされていることから子供救済の仏とされており、特に民間に仏教が広まった中世以降、圧倒的な信仰を受けることになりました。
奈良町界隈は、鎌倉時代には地蔵信仰の一大聖地であったらしく、地蔵菩薩に関わる事跡は枚挙に暇がありません。
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福地院 数珠繰り |
福地院は、千体仏の光背を背負う坐高3メートルに及ぶ鎌倉時代の地蔵菩薩坐像が残っていて、古くは相当に大きな寺院であったようです。地蔵盆に近在の子供達が集まって盛大に数珠繰りが行われます。
伝香寺は境内に幼稚園を経営する市井の小さなお寺なのですが、鎌倉時代の美しい裸形の地蔵菩薩立像が残っていて、この日にお地蔵様の衣替えが行われます。
十輪院は、鎌倉時代の地蔵菩薩を本尊とする石龕と住居風の楚々とした美しい本堂が残るお寺ですが、この日提灯が多数上がって、しめやかに地蔵会が行われます。
他にも、奈良町界隈では辻の地蔵石仏にも提灯が上げられて、読経が上げられるのです。
また、8月24日に地蔵盆を行う元興寺極楽坊では、夥しい地蔵石仏に蝋燭が上げられて、境内は幽玄な雰囲気で満たされます。
思えば地蔵盆の習俗も、古い町並みにかろうじて残るのみであって、我々の日常には縁が遠いものになってしまいました。
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