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歳時記 10月
2011年10月1日 写真展「私がとらえた大和の民俗」
写真展
「私がとらえた大和の民俗」
−8人の写真家が撮る民俗写真−
奈良県立民俗博物館 玄関ホール
2011年10月29日(土)
〜12月4日(日)
野本てる房、田中眞人、
志岐利惠子、野口文男、
松井良浩、植田真司、
森川光章、小写楽
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エ〜、恥ずかしながら私、ついに写真家の仲間入りを果たしてしまいました。
正確に言うと、このほど写真展にお呼びがかかって、写真を展示することになりました。私は原則的に、写真展などには作品を出さないことにしていたので、正に晴天の霹靂。
なんでも、奈良県立民俗博物館にて、有志一同で展示会を行うというもので、祭り関係は最近ご無沙汰していることもあって最初は断ろうかと思ったくらいですが、世話人をされている野本さんや田中さんにはいつも一方ならぬお世話をいただいていますし、一人3点のみということなので、結局参加させていただくことになりました。
とはいうものの、展示会への出展は始めてなので、写真選びには冷や汗。あらためて自分の写真を厳しく選別してみると、なかなかこれというものは見当たらないものですね。
こういうことを適当にやるのは性に合わないほうなので、3点でもいろいろと考えました。当然撮り直しも考えたけれども、よく考えてみると、3点でも2〜3ヶ月で満足なものを撮ることは至難の業。要するにこういうものは普段の心がけが大切で、急に作品は湧いてこないわけであります。結局、"翁の祭り"と銘打って写真を選びましたが、サテ皆様の反応は如何でありましょうか。
この3年ほど、祭り関係の写真はご無沙汰気味ですが、全く関心がなくなってしまったわけではありません。というより、むしろ頭の中のイメージを膨らましているところと言ったほうが相応しいように思います。もし撮るのならば、私は写真として人を感動させるものを撮りたいし、そのためには、ただ沢山撮れば良いというものではなくて、イメージを膨らませていく過程が重要なのです。
ただし、私はプロの写真家では無いし、仕事もあるし、他にもやりたいこともそれなりにあるわけで、果たして祭り写真に戻ってくるまで何年掛かるでしょうか? 木村伊兵衛にしても、土門拳にしても、常に複数のテーマを追いかけていて、ひとつところに決して停まっていたわけでは無いから、むしろそれは感性のバランスを維持するために必要なことかも。
ガラッと宗旨替えして動画にトライしようか? なんてことも思う今日この頃でありました。
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2010年10月1日 唐招提寺観月会にて
今年の中秋は、平日(9月22日)でしたけれども、仕事をうまく切り上げて、唐招提寺の観月会へ。21時まで行われていたので、どうにか間に合うことができました。
唐招提寺は、2000年から天平の甍で有名な金堂とその諸仏を対象に平成の大修理が行われて、昨冬ようやく元に戻ったばかり。今年は10年ぶりに金堂で観月会が行われて、金堂の開扉が行わて、夜中盧舎那仏、千手観音、薬師如来の御尊顔を拝することが出来ました。
かつて私が参りましたとき(15年前?)は、たまたま雨で来客も疎らだったので、赤色灯の明かりの下で仏様も寂しげでしたけれども、今回久しぶりに来てみて、平城遷都祭の影響でしょうか、お客様も多くて大変華やかでした。闇夜に浮かぶ仏様は正に金色(こんじき)に輝いており、かつて中国では仏像のことを"金人(きんじん)"と呼んだという話を思い出しました。
ただし、当夜は雲のために月が出ていなかったのが残念。有名な会津八一の歌のように、青苔を踏むような鮮やかな月光がもしそこにあったならば、もっと素晴らしい景色に出会うことができたでしょうに・・。
しかし、この10年は長かったように思います。大修理のために奔走された森本孝順長老を語る方もほとんどいない有様で、隔世の感があります。ただ、人は必ず滅ぶものでありますが、幾千人という先人達の想いがあったればこそ、金堂と諸仏が1200年の風雪に耐えて、今ここに在ることを考えると、人の志の高さとは、自らの名利とは別のところにあるのかもしれないとハタと思い至るのでありました。
最後に、久しぶりの仏様のお姿を愛でて、一句を添えることにしましょう。
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2009年10月1日 田中眞人写真集「奈良大和の年中行事」
この度、1月にご紹介した野本さんの写真集に続いて、仲間の田中眞人さんが淡交社から写真集「奈良大和の年中行事」を発刊されましたので、この場を借りましてお知らせします。
野本さん、田中さんと私の3人は、ほぼ同じ時期に奈良県の祭事の写真を撮り始めて、情報交換をしてきただけでなく、ホームページを中心に作品を公開するなど、お互いに切磋琢磨したきた間柄でもあります。ただし、お二人が既に会社をリタイヤされて、祭事関連の写真をライフワークとされて多くの時間を費やされているのに対して、私は日曜カメラマンの分限にしかすぎないので、その厚みは推して知るべし。結局、お二人が書籍の形に纏められるまで至ったのに対して私は大きく後塵を拝することになりました。少し口惜しい気もしますが、万葉集の写真という別のテーマも抱えているので、今までのペースを崩さず、じっくりテーマを練り上げていきたいと考えています。
さて、田中さんの写真集について、単に写真が素晴らしいだけでなく、写真に添えられた文章も大変貴重と思います。田中さんは積極的に祭事の詳細をメモに取られたので、おそらくこの本に掲載されている説明文は、民俗学的な資料としても十分役立つレベルになっていると思います。おそらく、写真を撮り続けているうちに、たまたま同行した大学院生などの民俗調査の手法を学習されて、いつのまにか自分のものとされてしまったのに違いありません。最近では氏が学生さん達の相談相手になっているほどです。考えてみれば、10年もの長い間、氏は日夜写真を撮り、調査を続けておられるわけで、その博物学的な情報量は、既に博士号論文数本分に達しているはずです。
田中さんのやり方は、我々が仕事以外に取り組むライフワークの理想を示しているかもしれません。プロの写真家が撮れない写真、あるいはプロの学者が集めれない情報を、地の利と有り余る時間を生かしてアマチュアがなし遂げてしまうというのはなかなか痛快です。在野の民俗学者宮本常一が40-50年前に撮った写真が、近年雑誌等で度々取り上げられますが、常一の写真もそういうものではなかったでしょうか。是非とも続編を発刊して、新しい知見をもっと発表して欲しいと思います。もしかしたら、100年後には奈良県民俗学学習のバイブルになっているかもしれませんから。 |
2008年10月1日 写真のイメージ
最近、万葉集の写真を撮るために、飛鳥や橿原、あるいは佐保の辺りを徘徊しております。そのため、今までの祭り関係の撮影は小休止状態。考えてみると、奈良という土地は、その切り口によっていろいろ違った面を見せてくれるので、同じところで撮影していても、被写体がまるで違います。
例えば明日香辺りで写真を撮るとして、歴史と重ねて撮影するならば石舞台や飛鳥寺のあたりを撮り、民俗学的な写真を求めるならば、正月に行われる稲渕の勧請縄やとんどの景色を撮ることになります。ところが、今の私のように万葉集の写真を撮影するという場合には、歌のキーワードを念仏のように唱えながら、カメラを持ってその辺りを徘徊することになります。先日は"明日香風"という言葉を壊れたテープレコーダーのように唱えながら、重いカメラ(最近マニュアルの中判カメラを使っている)と三脚を抱えて、かなりの距離を歩くことになりました。これも一種の修行のようなもので、そのようなことをしていると何かコツのようなものが体得できるはずなので、とにかくやってみることと腹を決めていろいろと試しています。
明日香近辺は彼岸花が終わって、そろそろススキが映える季節になろうとしています。今一番狙っていることは、但馬女王の悲恋の歌(人言を 繁み言痛み おのが世に いまだ渡らぬ 朝川渡る)を、明日香川と重ねて撮るということ。この歌は本当に悲しい歌です。だから、手を掛けて美しく撮りたいのです。そのためには、秋か冬の早朝の明日香川を撮らなければなりません。そしてそこに儚げなススキを入れたいのですが、サテそのようにうまくいくでしょうか。 |
2007年10月1日 大和の相撲
最近、大相撲の朝青龍問題が取り上げられて、果たして相撲はスポーツなのか興行なのか、あるいは神事なのか真面目に議論されているのを発見しました。確かに相撲は、もともと神事で神様に奉げるものであって、江戸時代に興行化して、今日のような形になりました。
右掲の写真は、奈良市邑地の水越神社に残る相撲神事を撮ったもの。実際に相撲をとるのではなく、両者が手を取り合って回る所作をするだけで、競技性は失われてまるで演舞のようです。邑地は、中世に春日大社の荘園であったところで、古い時代の相撲の形式を残しているとされています。
もともと相撲は「すまい(相舞)」を語源としており、神事の意味合いが極めて強いものでした。ただし、相撲は古代に東アジアから伝播して、騎馬民族系のモンゴル相撲や韓国相撲と兄弟であることは紛れもない事実なので、伝わった時には実践的で競技性の高いものであったものが、中世に芸能化したというのが本当と思われます。このことは東アジアのダンスや音楽が日本に伝播して、神事芸能化して、伎楽、舞楽、雅楽に変じたことと似ているように思います。ある意味で、朝青龍の野生も相撲の先祖帰りみたいなものかもしれませんね。
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2006年10月1日 大和の翁舞
稲刈りを終えて豊作を祝う秋の祭りは、喜びに溢れています。村人は、麗々しく着飾って社殿に集い、神輿渡御や神楽などが祭りを彩ります。日本の農村が最も美しい季節といえるではないでしょうか。奈良にも面白い秋祭りが沢山あって枚挙に暇が無いのですが、今回は翁舞を紹介します。
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奈良豆比古神社
三人翁 |
翁舞は、能楽発祥以前に、平安時代末から鎌倉時代に、神事芸能として始まったとされております。奈良では、特に談山神社で大変翁舞が盛んであったらしく、常行三昧堂で度々翁舞の興行が催されたことが記録に残っています。現在、談山神社には、摩陀羅神面と呼ばれる不思議な翁面が伝えられており、常行三昧堂の裏木戸に秘匿されて、今も神様として祭られているそうです。
ちなみに、世阿弥を生んだ観世座は、当時談山神社の末寺であった山田寺(飛鳥)の猿楽座(山田座)が発祥であったと伝えられています。
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奈良豆比古神社
三番叟 |
掲載の写真は、国指定重要無形文化財に指定されている奈良豆比古神社の翁舞です。祭りで使用される翁面はいずれも室町時代のもので、ひとつは世阿弥のライバルであった音阿弥が実際に使用したという由緒が残る貴重なものです。
他に奈良の東山中-柳生地区にいくつか翁舞が残っており、今にみることができます。このあたりは、かつて春日大社の荘園であったので、特に能楽や田楽の芸能が盛んに行われていたようです。
鄙びた村祭りで行われる翁舞は神々しく、格別な雰囲気があります。都会では味わえない贅沢な時間ですね。
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