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歳時記 12月
2011年12月1日 立川談志を悼む
11月21日に、落語家の立川談志が亡くなってしまいました。その訃報を聞いて、ある程度観念していたものの、終に来るべき日が来てしまったのかと暗澹たる気持ちに襲われました。
私が落語を精力的に聴いていたのは、既に30年以上前の10代から20代にかけての頃で、東京では円生、彦六、小さん、馬生が健在で、志ん朝、談志、柳朝、小三治などは売れてはいたもののまだ中堅というところ。大阪では松鶴、米朝、文枝、春団治、五郎が頑張っていて、枝雀が売り出し中の頃。ところが、今回の談志逝去により、現役で舞台に立つのは、東京の小三治、大阪の春団治のみとなってしまいました。時の変遷のなんとすさまじいことか。
その頃私は、円生、米朝などの本格的な落語が好きで、田舎のことなので、LPを借りてきたり、エアチェックしたりして楽しんでいたのだけれども、安藤鶴雄の「寄席談義」、古今亭志ん生の「貧乏自慢」、桂文楽の「あばらかべっそん」、米朝の「米朝ばなし」「上方落語ノート」、川戸貞吉の「現代落語家論」と学習が進んでいくうちに、最後にたどり着いたのが立川談志の「現代落語論」。
発刊から既に20年ほども経った本だったし、関西人の私には、談志の気負いが空回りしているように感じられて、最初はよくわからなかったのだけれども、「落語は業の肯定である」という言葉で、ハタと頭を叩かれたような感じがしました。
私のような凡人にも多少の人生の浮き沈みがあって、その頃(特に20代)は精神的には大変苦しい頃だったと記憶しています。生真面目な私は、努力していること、真面目に取り組んでいることが全く報われていないように思われて、行き場所に迷っていた時期でした。そのころ談志の「落語は業の肯定である」という言葉にたまたま出会っただけれども、結局私の心の中で自らの生き様と重なって、「人生は必ずしも努力すれば報われるというものではなく、宿業に貫かれている。むしろ、人間の業、愚かさを認めよ。」という(私自身の)人生訓に置き換えられて、今に至っています。今になって思えば、この頃が、人生の転機、生き方の転換点であったように思います。本質を突いた言葉というのは、このように他者の心の中で核分裂を起こすものなのです。
それ以来、談志の落語に注目してきたのだけれども、彼の落語に特徴的なことは、テンポの良さと人物描写のリアリティーでありましょうか。上方落語と江戸落語の決定的な違いは特にこの人物描写にあって、談志はその系譜を引き継ぐ江戸落語の正当な継承者でありました。毀誉褒貶の激しい人でもありますが、死後この数日の論評をみていても、わかっている人はわかっているようで、今後彼の評価は上がることはあっても、下がることはないはずです。
落語を聞いていて最も楽しいときは、演者の語りだけで、その背景に景色や人物が万華鏡のように浮かんでくる瞬間。そのような芸を持っている人が、今どれだけいるというのでしょうか。 |
2009年12月1日 纒向遺跡考
先週、今話題の纒向遺跡に行って来ました。いつもは人っ子一人いない静かなところですが、この1ヶ月は大変な人で、この日も岡山からバスがで人だかりでした。
私は、中学高校の頃、江上俊夫先生の北方騎馬民族説や井上光貞先生、水野祐先生の古代史の本をむさぼり読んでいたことがあって、今でも大の歴史ファン。特に、邪馬台国の卑弥呼というと眼がないのです。実際に発掘現場を訪れてみて、いくつか私なりに思ったことがありましたので、今回はそれらを書き留めておくことにしました。
- 宮殿の一部と思しき跡が発掘されて、一説には卑弥呼が住居して実際に祭祀を行っていた建物の可能性があるそうです。この遺跡は東向きになっていて真東の巻向山や東南東の三輪山に向っているのが不思議です。東方を向いているので、太陽祭祀との関連性が指摘されています。
- 卑弥呼に擬せられている箸墓の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)は、記紀伝説上では、三輪山の大物主神の妻となったが、夫の正体が蛇であることがわかって、箸に陰(ほと)を突いて死んでしまったとあります。私は、この伝説は、太陽との交合を暗喩しているのではないかと考えています。日本の神道、特に皇室系の太陽祭祀には、太陽との交合を意味する所作がいくつかあるとされており、皇室の太陽信仰との関連性が指摘できるかもしれません。
- 卑弥呼に擬せられるもう一人の記紀伝説上の天照大神も、天岩戸伝説があり、皆既日食を思わせる太陽伝説を持っています。文献学上の研究では、天照大神を倭迹迹日百襲姫命と同人物とする説が有力です。
- 今回発掘された宮殿は、東方から上る太陽を祭祀するための祭祀宮殿ではないかと思います。北と南に河川に挟まれた狭隘な微高地にあって、ほかの用途とは隔離された特別の空間になっています。
- 倭迹迹日百襲姫命と同時代の第十代崇神天皇は、歴史研究上、実在が確実視される最初の天皇ですが、その宮殿は「瑞籬宮(みずかきのみや)」と伝承されています。水垣に囲まれた宮という意味と思われ、発掘された宮跡との関連性が指摘できます。
- 私見ですが、発掘された宮殿跡とよく似た地勢のところが他にあります。それは、天理市の大和神社で、纒向遺跡の北方約5キロのところにあります。この神社も東側を向いて、竜王山と正対しているように見えます。直木孝次郎さんが、大和神社が東を向いている不思議を論じておられて、何らかの古代の宮殿跡に神社を移設したものではないかという自説を書いておられました。
- 大和神社の社伝によると、祭神の日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)は大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)で、宮中内に天照大神と同殿共床で奉斎されていましたが、第十代崇神天皇六年に天皇が神威をおそれて、天照大神を皇女豊鋤入姫命をして倭の笠縫邑に移されたとき、皇女淳名城入姫命(ぬなきいりひめ)に勅して、市磯邑(大和郷)に移されたのが大和神社の創建であると伝えられています。魏志倭人伝によると、卑弥呼亡き後、女王の座を継いだのは壱与(いよ)とされていますが、イヨはトヨ(豊)ではないかとする説があります。
- 大和神社の末社に兵庫神社という社が長柄村にあります。兵庫とは武器庫という意味です。近くには、神社そのものが古代の大武器庫で、祭神も"剣"という有名な石上神社がありますし、古代宮殿跡という説は捨てることは出来ません。
- 大和神社のある長柄は、纒向遺跡の北方に隣接していて、桜井市と天理市の行政区分上、巻向遺跡とは別の扱いになっていますが、実際には同じ地域にあると考えることも出来ます。
先般TVを見ていましたら、天照大神の天岩戸伝説を皆既日食と見て、卑弥呼を太陽信仰のシャーマンとみる説が取り上げられていましたが、倭迹迹日百襲姫命の蛇伝説を太陽信仰との関連性で論じる説はまだ出ていないようです。考えることは誰も同じと思うので、これから同様の意見が専門家の中から出てこないかなあと密かに期待しています。
夢は、箸墓の発掘が可能になって「親魏倭王」の金印が発見されること。100年先等とは言わないで、私が生きているうちに歴史の秘密は明らかにならないでしょうか。 |
2008年12月20日 変
この時期テレビなどで1年の総決算が話題になりますが、何でも2008年を漢字一字で表すと"変"ということになるのだそうです。でも、この"変"というのはとっても変です。なぜなら、"変"の一文字は、なんとなく変化がありそうだけど、その理由や行き着く先がハッキリわからないときに使う言葉だからです。
9月頃から経済が突然変調して、不景気の嵐が吹き荒れています。しかもこれは始まりであって、まだもっと悪くなりそうな気配です。果たしてこれからどうなるか分からないという不安が、"変"の本当の理由のようです。
でも、私の50年ほどの人生の中でも、これと似たようなことはなかったっけ? ドルショック、オイルショック、円高不況、バブル崩壊、アジア金融不安、IT不況・・。特に、バブル崩壊以降の3つの不況で、我々はデフレ経済の狂気を骨身に沁みて経験したわけで、それであればこそ、本当は"変"ではいけないはずです。
我々市井人にとって、他力に生きねばならないということはしようがないこと。決して華々しい人生でなくとも、むしろそのことにこそ本当の人生の意味が存在するのかもしれないと最近思うようになりました。しかし、日本のリーダー達が、このような大事に、"なんだか変だ"とうそぶいているようであれば、それは正しく"変"です。"変"を"確"に変えるためには、我々は、やはり過去から注意深く学ぶべきなのです。
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2007年12月1日 暖冬
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除夜
Dec. 31 1999 |
早いもので12月です。今年はあまり写真が撮れず、少し不調でした。やはりデジカメ全盛の中で、アナログ写真は少しきついですね。写真を撮りに行っても、アナログでとっているのはほとんど私だけという具合です。それに35mmだとデジタルのほうが写りがシャープなので、既に分が悪いようです。ただ、中判カメラを使うと文句なくこちらが勝ち。というわけで大きな弁当箱みたいなカメラを担いで撮っています。ただ、プロもだいたい35mmのデシタルカメラと中判カメラの両刀使いが多いみたいですけどね。
今年は、12月だというのにまだ紅葉の写真が撮れるようです。でも、俳句のほうは全く駄目です。既に冬至を過ぎて1ヶ月というのに、紅葉では季語がめちゃくちゃです。先週久しぶりに、メタボリック対策でウォーキングに行ってみたら、まだ虫が鳴いていたのでびっくり。10月初旬の陽気なので歩くのには良かったけど、俳句を捻るのは、感じが出ないので諦めました。俳句の良いところは季語が使えるところですが、素直に目前の景色を詠むと季語がずれてしまうというのは本当に困ったものです。やはり日本の四季は、その時節に相応しい景色であってほしいものですね。 |
2006年12月1日 春日若宮社"おん祭り"
春日若宮社の"御祭り"は大和一国の祭りとされています。平安時代の保延2年(1136年)に関白藤原忠通によって創始されて以来870年間;連綿として続けられてきました。もともと藤原氏の氏寺であった興福寺の大和支配を確立するために始められたとも考えられ、実際に大和一国がその支配下にあった中世には、大和一円の土豪が集って、極めて盛大であったようです。奈良県下の祭事を調べてみると、
翁舞、田楽、神事相撲、競馬、神饌など、春日大社の祭礼との相似点を随所に見つけることが出来るので、その影響が極めて大きかったことがわかります。
"おん祭り"の最大の特徴は、古代・中世の芸能がまるで冷凍保存されているかの如く現代に残っていること。松の下やお旅所で行われる能楽、田楽、舞楽、細男、大和舞、神楽などの諸芸能は、ここでしか見れないものばかりです。
現在、おん祭に関連する展覧会が2つ奈良で行われています。
特に、写真美術館の展覧会は観覧してきたばかりで、皆さんにも是非見ていただきたいと思います。"お水取り"の写真集や専門書はいくつか出ていますが、"おん祭り"の方はあまり取り上げられないので不思議な気がします。奈良という町が実は中世に完成して今に続いているという事実を考えるならば、この祭りの意味をもっと重視しても良いのではないかと思うのですが如何でしょうか。
今年は日曜日なので、今まで撮れなかったお渡り式を中心に撮影しようと思っています。雨でなければ良いのですけれどね。
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